地唄舞上達への道④  ~杜季女聞書抄~

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あけましておめでとうございます。
本年も「杜季女聞書抄」「ちょっと地唄舞情報」を少しずつ掲載してまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 
※今回は眼の動きや表情についてお話を伺いたいと思います。私は舞っていて時々どのあたりを見たらいいのか視線が泳ぐことがあります。とくにお座敷で舞うような場合は観客が近くてどうしてもあそこに誰がいるというようなことが目に入ってしまい、眼の動きによって舞が乱れる気がしています。
╶─まず舞の基本的なことは、眼を使って表情を動かしてはいけないということです。お稽古でよく「クジラ目」という言い方をしますが、眼に焦点をもたないようにしてほしいのです。お能の場合も眼を後に引くと言います。見るともなくぼーっと見るのです。どうしてかというと、普段の生活のように何かに向けてはっきり眼が動くと、観客の関心が顔にだけ集中してしまうからです。舞は顔で語るものではなく全身での芸術表現でしょう。ですから眼が語り過ぎないようにしていただきたいのです。それに眼を変に動かすと顎も動いてしまい身体の線が美しくなりません。
 

※よく顔はお人形のようにとご指導いただく意味はそこにあるのですね。
╶─特別な場合をのぞいて基本的には、黒目が白目の真ん中にある状態を保ちたいのです。眼の動きは極力なくしてください。顔の中の両眼ではなくいつも第三の眼を意識することです。第三の眼とは、鎖骨にはさまれた喉のくぼんだところ(胸骨柄にある頸(頚)切痕と呼ばれる窪みの上にある体表上の窪みで、「頸(頚)窩(けいか)」という名称)あたりで見ることを言います。眼ではなくこの部分で見るように意識して動いてみてください。
眼を作為的に動かすのは新舞踊や大衆演劇では色気を出す流し目など効果的に使われる動きですが、地唄舞では露骨に視線を動かすことはしません。目の玉をあちこちに動かすということは、神経が顔にいってしまう状態です。顔の印象が大きくなってしまいます。さらに悪いことに顔に神経がいくことは上半身に神経が行くことになって、身体の重心が上にあがってしまいます。地に足がついた感じがなくなり浮ついた状態になります。お腹(丹田)にちからが集中する舞の基本中の基本が崩れるときれいな舞のかたちになりません。情感を顔で見せるのではなく全身(ボディ)で見せてほしいと思います。顔でごまかしてはいけません。お腹の重心からの指令でにじみ出る抑制された表情が地唄舞では求められています。
 
※たしかに、眼の動きで舞手の感情がはっきり顔に出てしまうと、観る側も舞手の喜怒哀楽を押しつけられて興ざめするかもしれません。舞の奥深くに感じられる情感や幽玄さなど、鑑賞者の想像の入る余地がなくなってしまいます。
 
╶─╴ずっと眼に力を入れっぱなし、眼にものを言わせているのでは観ているほうはしんどくなってしまいます。「鉄輪」など強い感情の演目の中のある場面において、瞬間的に焦点をあわせてかっと眼力を出すのはよいのです。でも、それ以外では精神を入れた素の状態で一歩引いた目線でいてください。舞台で白塗りの場合とお座敷で白塗りのない場合も少し違います。白塗りは一種の能面のようなものですから、少し表情を出しても直接的な表現にならないのですが、素で舞う場合はくれぐれも眼の動きで感情を出そうとしないでほしいのです。
舞の時は普段の生活の顔ではいけませんが、眼に不必要な力の入った緊張した顔でもだめです。たとえば、聖職にある方が祈るときの顔を想像してみてください。それはいつもの顔ではありませんが、硬直したり特定の感情の入った表情ではありません。祈る対象に真摯に向き合うやわらかな表情ではないでしょうか。そういうイメージを持っていただくと眼の動きや顔の表情がどうあるべきか少しわかっていただけると思います。
 
※祈る顔というお言葉はとてもわかりやすく胸に響きます。大変良いことを教えていただきました。たしかに人間は祈るときには眼前にあるものではなく、目に見えない遠くのものを見ようとしています。
 
╶─自意識が出ないように。自分を俯瞰するような精神でしょうか。実は私もなかなかそれが出来ないので、舞を通して日々修行をしているようなものです。
 
続く
文責 珠真女