義太夫 蛇の王妃エグレ

歌詞

凪ぎし汀の彼方より、歌ふ鴎の声高く、麗らかなりし日和かな。

「これは諸国一見の僧、海青にて候。我この程は勧進のため、都から下りし候ほどに、はや海辺の街に着きにけり。」

風に葉音のさやさやと、擦る音聞きつけ海浜(かいひん)の松を見つけて歩み寄り、

「実(げ)に心地よき、葉音かな。」

と幹に手を掛け顔を寄せ、

「なほ、たをやかなる、この木肌。」

としばし佇み居たりしが。

〽実に人の心、闇にあらねども。夫(つま)思ふ道に迷ふとは。我こそ思ひ白浜の、行方を何と尋ぬらむ。

「この海浜に物語あり。」

彼方の松の木陰より、すっくと女立ち出でて

「今は昔、海の底の蛇王に嫁ぎし女あり。蛇王にしばしの暇を乞ふて、陸に上がりしその隙に、人間の騙しに遭ひ、蛇王ついに殺められし。夜毎日毎に女は嘆き、やがてその姿松に変じ、この地に留まり数百年。これは女とその子孫の生まれ変はりの松と聞く。今宵、望月の明かりをたよりに再び来給へ。是非にその物語せむ。」

と声を掛け、松籟の音諸共に女は歩み遠ざかり、夢の如くに失せにけり。

さるほどに、この松の子細は。昔このところにエグレと申す女の居(お)りたるが、蛇の王に見初められ、海の底へ嫁ぎし候。

子を儲けていたはり育て、明かし暮らすも幸ひなり。

ある時、夫に申しけるは、おのが所縁(ゆかり)の人間界へ、ひとたび帰らせ給へ。

夫はこれを聞き、されば尤もなり。子と共にしばらく地上の人間に遭ひ、やがて戻られ給へ。戻る時は海辺にて、呪文で我を呼び出(いだ)し、共に海の底へ帰らむ。大切なこの呪文、よくよく心に留め給へ。

妻は喜び子を連れて、地上の人間界へ帰り給ふ。いたはり楽しき日を過ごし、いざ海底へ帰らむとす。

浜辺にて迎への呪文、唱へてみれば、夫は見えず、たちまち波は血潮のごとく、赤く染まりて候。

妻はあまりに心許なく、いよいよ怪しと村人に尋ねてみれば、蛇王は呪文を盗みし人間に呼び出され、既に殺められしと聞く。

あまりの愛(いと)しさに妻と子は、声をあげて泣き叫び、呼びかくれども答(いら)へもせず、尋ぬれどもまた波音ばかり。心もとなく、やるかたもなく悲しければ、その姿一人、また一人と松の姿に変じ、この地に留まり給ふと聞く。

今宵は月も隈なく出でて、美しき葉音に誘(いざな)はれ、思はず此処まで来たりしが。そなたを僧と見て、かやうな事を御物語、申し上げて候。

夜も更け月の清(さや)けき折、海青、浦を眺めしところ。虚空に葉音降り注ぎ。これただごとと思はぬ所に。

「我は人間にあらず。海の底の蛇王に、嫁ぎし妻は我が事なり。

何の因果か蛇王に、見初められて海底へ、嫁ぎしも早十余年。我を故郷の人間界へ、帰した夫は騙しに遭い、ことばをつぐむ暇もなく、無残に殺められしとや。

夫婦の大事さ大切さ、蛇の世界とて同じこと。

陸で生まれし母は人間、されども子は人になし。縁所縁(えんゆかり)なきこの地上で、どうして生きていかれうぞ。母子とも今を限りにて、海辺の松の姿と変じ。いとしき夫や子と共に、やがて必ず成仏し、未来で共に暮らさうぞ。離れ難なや悲しやな。回向を頼む旅僧よ。」

と、言ふ声さへも忍び泣き、立って見居て見声を上げ、身を震わせて嘆きしが。

オォそなたの心、承知致した。余を陸(くが)に帰(き)せし夫の心、さぞ立派なり、健気なり。大事の夫(つま)へのその思ひ、そなたに代わり海青が、経を唱へ奉らむ。

と、数珠さらさらと押し揉んで、

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、なむあみだ、と唱ふる声に、さらさらさら、

虚空に数珠音葉音とも、楽となり舞い戯れしが、次第に波も和らぎて、あと水面に映る、望月ばかりとなりにけり。

解説

この作品は、リトアニアで語られるエグレの伝説を素材とした後日譚で、舞台を日本に移して作曲鶴澤三寿々、詞章翻訳木村文、作舞花崎杜季女で制作されました。

以下、作曲の鶴澤三寿々氏の解説を引用いたします。

旅僧(ワキ)が伝説の女(シテ)に出逢う、という夢幻能の仕立てにしました。

季節は秋。海青という名の若い旅僧は、海岸で美しい松の葉音を聞きます。すると一人の女が現れ、海底の蛇王に嫁いで松と化した女の伝説を語り、夜に詳細を話すから再び来るようにと促します。

やがて夜になって海が荒れ、女の霊が現れました。

「私は蛇王に嫁いだ女です。地上に里帰りをして、いざ戻ろうとすると、戻させまいとする人間達からの騙し討ちによって、すでに夫は殺されていました。夫のいない私は海に戻ることができず、陸で生きようにも純粋な人間でない我が子は人として生きることができません。こうして私たちはこの地に留まって松となり、陸と海の境で生き続けています。」

海青は数珠を取り、一心に経を唱えました。すると海は次第に凪いで女は消え、松の葉音は波音と柔らかく調和します。やがて水面には満月が美しく映るばかりとなりました。

曲は義太夫節の古典的な旋律が中心ですが、エグレのテーマには古き時代のリトアニアを想起させる旋法を取り入れました。二〇二二年はリトアニアと日本の友好百周年。この作品は、昔も今も両国ともに自然が豊かで、その豊かな自然をこよなく愛する人々の住処であることを表現しています。二〇二二年四月にリトアニアのカウナスで初演。

エグレは人間と蛇の世界のそれぞれにて情を交わしています。エグレにとって夫が殺された衝撃はあまりに大きく、未来へ歩もうとする活力を失った彼女は、人生の時間を一旦止めてしまいました。しかし木に生まれ変わり、今度は人間界と蛇の世界の狭間に留まって末永く生きることとなったのです。

この伝説は悲しい物語で、しかもそれは誰もがエグレを愛した結果の悲劇です。しかしエグレとその子供たちは、自らの運命に大きく抗うことなく大自然の一部となりました。そして今でもきっと、両方の世界を見守り続けてくれていることでしょう。